東京大学シンポ『宇佐美圭司《きずな》から出発して』について「アートコレクターズ」2018年12月号に寄稿
宇佐美圭司の絵画破棄問題に関連し、先の東京大学シンポ『宇佐美圭司《きずな》から出発して』について「アートコレクターズ」2018年12月号に寄稿しています。
東京大学中央食堂における、東大生協によって引き起こされた宇佐美圭司(1940-2012年)の作品廃棄問題の経緯から触れ、東京大学シンポ『宇佐美圭司《きずな》から出発して』の概略も記述しています。充実したシンポジウムであったことを踏まえた上で、感じた疑問点も率直に書きました。なにとぞご一読ください。
文章中でも希望した、継続的な宇佐美圭司についての研究会は、12月4日に東大駒場でワークショップ「宇佐美圭司の思想」も開かれたようで、こういった取り組みは素晴らしいと思います(僕は聴講できませんでしたが)。
更に、美術批評家連盟主催の2018年度シンポジウム「事物の権利、作品の生」も宇佐美圭司の作品廃棄を起点に開催されました。今回の寄稿文はタイトルを「作品の不在が起動する」としましたが、まさに宇佐美作品がその力能を、廃棄という悲劇から逆説的に発揮している状態が成立していることは、たいへん興味深いといえます。
ここからは寄稿文とは関係のないお話。宇佐美圭司については、僕は最も興味深い作品群は非絵画、例えば68年の須磨での《イマジナリー・ポール》、72年のヴェネチアビエンナーレに出品された《ゴーストプラン・イン・プロセス》だなと思っていました。また70年代中頃までの絵画(《きずな》は77年)もとても良いと思っていました。《きずな》もその一部に含むダイアグラム絵画は、いわば「反」絵画で、その意味では非絵画のしごとと大きな連続性を持っていると考えていいでしょう。大原美術館では、僕が見たときは荒川修作のダイアグラム絵画と宇佐美の《ジョイント》(68年)が並べられていて、さすがに高階秀爾館長はこういうところは分かってるな、と感心した記憶があります。
同時に78年に《100枚のドローイング》を手がけて以後、ことに80年代に至って宇佐美圭司の絵画は悪しきマニエリズムに嵌まり込んでいるように感じました。2012年の三島での生前最後の個展を見ても基本的には同じ印象でいたのですが、ただこのとき、ちょっとひっかかったのは画布がとても「薄かった」ことです。僕はART TRACE PRESS02の福井での宇佐美アトリエ訪問とインタビュー収録・その後の編集作業に編集協力として立ち会っていますが、その経験を経る中でずっと引っかかっていました。
ここで宇佐美の著作『デュシャン』が想起されます。東京国立博物館「マルセル・デュシャンと日本美術」展を見ながら僕が考えていたのはまさに宇佐美圭司のことでした。階段状に変化する人型、斜めの動き、射影、そして「極薄」の画布。このことはある方とのメールのやりとりにも書いたことですが、その方からは宇佐美がガラスへ絵を描いていたことも教えられました(これは僕は知らなかった)。80年代以後、宇佐美が考えていたのはデュシャンがその初期に放棄した絵画での試みを、自らの後期のしごととして捉え直そうということだった──この考えは、いずれきちんと追いかけなければいけないと考えています。
福井に宇佐美さんのお話を伺いに行ったとき目にした、光り輝く日本海の素晴らしい眺望とアトリエに流れ込む柔らかい採光。あのときの宇佐美さんの、とても死を前にしていたとは思えない溌剌とした声と笑顔は、忘れることができません。